ボランティアの方を募集しています

 

全国ソロモン会ではボランティアの方々を募集しております。ガダルカナル島には、戦後70年を経た今もなお、多くの日本軍将兵軍属のご遺骨がジャングルの中などに眠っています。全国ソロモン会では昭和43年以来、戦没者の遺骨収容活動を継続して行っております。

 

近年では、厚生労働省主催による『政府派遣』と『応急派遣』、(財)日本遺族会主催による『協力派遣』、当会と特定非営利活動法人JYMA日本青年遺骨収集団の協同活動による『自主派遣』があります。

 

全国ソロモン会
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ガダルカナル作戦について

 

 

大東亜戦争(太平洋戦争)初期、日本とアメリカが双方とも最大の戦力を投じて行われた作戦です。日本軍はガダルカナル作戦までは、アメリカ軍に対して優勢でしたが、この作戦で日本が失敗したためにアメリカ軍に押されていきました。

 

この作戦は、1942年8月7日から翌年の2月7日までガダルカナル島で行われました。ガダルカナル島は、連合軍のオーストラリアとアメリカを結ぶ線の上に位置します。ガダルカナル島を日本軍が押さえれば、米豪両国を分断できると、日本軍は判断し、そこに日本海軍が飛行場を設営しました。その飛行場をルンガ飛行場といいます。現在は、ホニアラ国際空港と呼ばれます。飛行場の後ろに位置する山の方から日本軍が総攻撃をかけました。

 

ルンガ飛行場を作った日本軍は小部隊でいたところを、アメリカ軍の1個師団がガダルカナル島に奇襲上陸し、瞬く間に飛行場を奪ってしまった。日本軍は、飛行場奪回のため、一木支隊、川口支隊、第2師団、第38師団を順次上陸させたが、いずれも苦戦し、飛行場に近づくこともままならなかった。

 

日本軍の主力戦闘機は、ラバウルから飛んでくるため、ガダルカナル島には15分程度しかいることができず、アメリカ軍はヘンダーソン飛行場から迎撃に出るため、制空権は完全にアメリカ軍のものになっていた。ガダルカナル島の日本軍は昼間は行動できず、夜のみ移動するという状態が続いた。

 

また、海上もアメリカ軍が優勢で、ガダルカナル島に補給する日本軍の輸送船はことごとく撃沈され、ガダルカナル島への補給は閉ざされてしまいました。ガダルカナル島は、ジャングルの島で、食料となるものはありません。島にいる日本軍は、飢えと病気(マラリアの流行地で、現在でもそうです。)で多くの兵隊が亡くなりました。

 

日本軍は上陸した総兵力31,400人のうち、21,000人の戦死、戦病死者を出しました。残った兵士達も、1943年2月1日から7日までの間に餓死寸前で撤退しました。実際の戦闘で亡くなったのは5・6千人と言われており、後は病死と餓死です。ガダルカナル島を「ガ島」=「餓島」と呼びます。

 

ガダルカナル島を制圧したアメリカ軍は、ソロモン諸島ニュージョージア島ムンダ飛行場(日本軍の設営した飛行場、ガダルカナル島とラバウルの間にあります。)へと迫ります。

 

全国ソロモン会
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ガダルカナル島の戦跡

 

全70カ所の戦跡の内容については、1991年から1993年の2年間、ガダルカナル島と対岸のツラギ島にあって、国際協力事業団の一員として、ソロモン国営造船所にて技術指導にあたっておられた嬉昌夫氏の協力を頂きました。また、特に戦闘経過戦跡地については全国ソロモン会、勝股治郎 氏の御指導を頂きました。

 

1:ツラギ島(Tulagi)
ソロモンの政庁ががあった所。1942年5月3日、呉第三特別陸戦隊が上陸。同年7月第八四警備隊に改編、8月8日玉砕した。その後米軍艦船基地となった。281高地には慰霊碑があり、近くに日本軍の洞窟が8箇所ある。
2:ガブツ島(Ghavutu)
1942年5月3日、呉第三特別陸戦隊の一部と海軍横浜航空隊が上陸し、水上機基地とした。1942年8月8日玉砕した。日本軍の洞窟が2箇所ある。
3:タナコンボコ島(Tanambogho)
1942年5月3日、海軍横浜航空隊が上陸し、水上機基地とした。1942年8月8日玉砕した。日本軍の洞窟が4箇所ある。
4:トウキョウ湾(Tokyo Bay)
駆逐艦「菊月」と「第三利丸」とが座礁しており、現在でも上甲板に上がることができる。近くには、米輸送船も座礁している。
5:タイボ岬(Taivo Pt)
一木支隊(1942年8月18日・29日)、川口支隊(1942年8月29日~9月7日)の上陸地点。
6:パレスマ河口(Mbalisuna)
川口支隊はここから南下し、ジャングル地帯を進んだ。
7:コリ岬(Koli Pt)
一木支隊の将校斥候隊が攻撃を受け、最初の戦死者が出た場所。タゴマ(Taghma)との説もある。1942年10月下旬、コリ支隊、東海林部隊の進出した地点。
8:コニー飛行場跡(Koni airfield)
1942年10月、米軍が飛行場(2箇所)を建設した。滑走路・兵舎・司令所・病院・弾薬庫・水補給所跡などがある。
9:テテレ海岸(Tetere Beach)
米軍の上陸・補給地点。水陸両用戦車アリゲーター(Landing Vehicle Tracked Alligator)が35台放置されている。米軍の記念碑がある。
10:レッド・ビーチ(Red Beach)
1942年8月7日、米軍の海兵隊がここから上陸した。その後補給地点となった。海岸には、当時の桟橋跡が残っている。米軍の記念碑がある。
11:中川河口東側(Alligator Creek East)
一木支隊奮戦の地(1942年8月20日~21日)。「一木支隊奮戦の地」記念碑建立場所。
12:中川河口西側(Alligator Creek West)
一木支隊を迎え撃った米軍陣地跡。米軍の記念碑が建立されている。
13:イル川上流(Tenaru)
川口支隊(1942年9月中旬)、第二師団(1942年10月下旬)の進撃地点。
14:テナル教会前(Tenaru Charch)
「一木支隊鎮魂碑」建立場所。
15:米軍のテナル病院跡(Tenaru Hospital)
テナル教会のすぐ後ろにある。記念碑が建てられている。
16:ムカデ高地南部(Bloody Ridge East)
川口支隊突入地点。「川口支隊慰霊碑」及び「第二師団慰霊碑」建立場所。第二師団の突入地点は、ここより東方のジャングル。
17:ムカデ高地北部(Bloody Ridge North)
米軍の記念碑建立場所。
18:米軍司令所跡(General Vandegrift’s commandpost #1)
川口支隊攻撃時、一部の部隊はこの付近まで突入した。
19:ヘンダーソン飛行場(Henderson Airport)
もともとは日本軍が建設した「ルンガ飛行場」のこと。米軍が1942年8月7日占領し、その後拡張して「ヘンダーソン飛行場」と呼称した。空港前の広場には、日本の高射砲と米軍の記念碑がある。
20:エドソン記念塔(Edson’s memorial)
飛行管制塔のそばに、米軍の防空壕、および米軍の記念碑がある。
全国ソロモン会
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21:飛行場の待避壕
滑走路の西端ルンガ川寄りおよび東南に戦闘機用滑走路跡が東北側に各数箇所残っている。
22:ルンガ河口(Lungga Pt)
河口の西側地点に第一三設営隊、川の東側海寄り第一一設営隊宿舎があった。
23:ルンガ川橋東岸(Lungga river)
現在のヘンダーソン空港とホニアラ市内を結ぶ道路の南側土手に米軍の壕跡。川淵の土手に米軍の洞窟病院、更に川上約100mのところに洞窟が見える。
24:ベチカマ(Betikama school)
ベチカマ・スクールの敷地内にある戦争資料館に、飛行機、戦車、銃、砲弾などが展示されている。
25:ククム(Kukum)
ククム地帯一帯は、第81警備隊、後に第八四警備隊の駐屯地であった。1942年11月に米軍が、戦闘機用の飛行場として建設した。1942年12月、中沢挺身隊がこの地に潜入し、米軍の飛行機、照空燈、自動車などを爆破した。現在はゴルフ場となっている。
26:平和公園(Japanese peace memorial)
平和を祈願して日本が建設した。この場所には米軍の砲兵陣地があった。ここからさらに、道沿いに妬く200mほど上がったところに、米軍の迫撃砲陣地があった。
27:ギフ高地(Gifu ridge)
歩兵第二二八連隊第二大隊(稲垣大隊)、歩兵第一二四連隊第二大隊(西畑大隊)激戦地。「岡部隊慰霊碑」が建てられている。近くのバラナ村には、日本軍の鉄帽・水筒・飯盒・零戦の主翼・操縦桿・補助タンク。米軍の鉄帽・水筒などが集められている。
28:アウステン又はオースチン山頂上(Mount Austen)
米軍の記念碑が、山の中央頂上と東側頂上の2カ所にある。中央頂上の記念碑に通ずる道には、住民が金網を張っているので、約100m歩くことになる。東側頂上の記念碑がある場所は公園になっている。
29:ライト・ロード(Wright road, Mount Austen Road)
ライト・ロードは戦時中の米軍による呼び方で、ソロモン諸島ではマウント・オーステン・ロードと呼ばれる。ギフ高地の日本軍を攻撃する為に米軍が建設した道路。平和公園はこの道の途中にある。
30:マタニカウ川河口(Matanikau River)
独立戦車第一中隊の戦車10台(12台との説もある)が米軍の攻撃を受け、破壊された地点。戦車はそのまま海岸に放置され、その後の侵蝕により現在は海中に沈んでいる。ただ1台だけ海中に砲塔らしきものが見える。河口の東側集落は慰霊団が海側に入るのを嫌っている。入域については事前にキャプテンに交渉する必要がある。河口の西側の集落は比較的入りやすい。
31:マタニカウ川一本橋
大木が倒れて橋のようになっていた所。現在のチャイナタウンから約300m上流。
32:舞鶴道
岡部隊が、マタニカウ川とルンガ川の間に啓開した道。福岡の舞鶴城からその名をとった。
33:アメリカ戦争記念塔(American war memorial)
1992年8月7日、米軍がスカイライン・ヒルの東側(日本軍が堺台と呼称した所)に建立した。石壁には、主要戦闘の説明が刻まれている。
34:シーホース高地(Sea horse ridge)
歩兵台一二四連隊本部・第一大隊・第三大隊・速射砲隊・連隊砲隊・通信隊の激戦地。
35:堺台
1942年10月から1943年1月にかけて、日米両軍が錯綜して戦った激戦地。
36:砲兵台
1942年10月から1943年1月にかけて、日米両軍が錯綜して戦った激戦地。
37:宮崎台
1942年10月から1943年1月にかけて、日米両軍が錯綜して戦った激戦地。
38:百武台
1942年10月から1943年1月にかけて、日米両軍が錯綜して戦った激戦地。
39:勇台
1942年10月から1943年1月にかけて、日米両軍が錯綜して戦った激戦地。
40:見晴台
1942年10月から1943年1月にかけて、日米両軍が錯綜して戦った激戦地。
全国ソロモン会
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41:九○三高地
南丘の裏側谷間に、1943年1月14日まで第一七軍司令部があった。北丘頂上には、野戦重砲第七連隊の観測所があった。
42:九九○高地
山頂には、野戦重砲第四連隊の観測所があった。現在、海抜276mの三角点標柱がある。
43:九八六高地(Galloping horse ridge内)
見晴台の中にある。40項参照。
44:ポイント・クルズ岬(Point Cruz)
1942年10月から1943年1月にかけて、日米両軍が錯綜して戦った激戦地。
45:小川(Mokana Creak)
1942年12月時点に於ける、第二師団の防衛線となった小川。独立速射砲第二大隊は、現在のソロモン・キタノ・メンダナ・ホテル。ホテル近くで全滅した。
46:沖川(Rove Creak)
海軍本部のあった所。現在の警察学校近く。
47:勇川(White River)
丸山道入り口。丸山道は沢づたいに入っていた。1942年12月から1943年1月にかけて、第二師団戦闘指令所及び第三八師団司令部がおかれた。
48:コカンボナ(Kokanbona)
丸山道入り口。ソロモン人のマーチン氏が建てた慰霊碑がある。
49:水無川(Poha)
「丸山道入り口碑」ソロモン在郷軍人会々長ベネット氏が主唱して建立。全国ソロモン会が改修したのが三角碑である。。ポハ川右岸に、第二師団戦闘司令所がおかれた。
50:水無川野戦病院跡
「丸山道入口碑」の上流2km位である。
51:ママラ川(Mamara)
矢野部隊防護線。
52:ママラ川水源(Mamara)
二九連隊主力野営地。
53:タサファロング(Tasivarongo Pt)
第二師団(1942年10月)および第三八師団(1942年11月)の上陸地点。第三八師団を乗せて来た輸送船「鬼怒川丸」の船体の一部が、現在でも海面から出ている。米軍機の機銃掃射の弾痕が、付近にあるココ椰子林内の樹の幹に残っている。
54:米軍戦車(Jezabel)
草原の中に、米軍の「シャマン」戦車が残されている。
55:セギロウ川(Tahanjiho or Umani)
ジャングル内に設置された野戦病院跡。
56:戦争博物館(Vilu war museum)
ソロモン人が、日・米両軍の飛行機、砲・銃などを集め、屋外に展示してある。また日本人の建立した慰霊碑、海軍ソロモン会より贈った軍艦旗も中央ポールに掲げてある。
57:ボネギ川西岸(Mbonehe)
日本軍陣地跡。東側には病院があった。
58:アルリゴ岬(Aruliko Pt)
ガダルカナル島撤退のために、各部隊が通過した所。
59:エスペランス(Esperance)
日本軍の撤退場所。(1943年2月1日・4日7日)
60:タンベア(Tambea)
第二師団の記念碑がある。当時ここは戦跡に無関係。昭和46年48年度収骨時にホテル庭で焼骨した場所の為建碑した。
61:カミンボ(Kominbo bay)
岡部隊、及び、青葉支隊の上陸地点。また、日本軍の撤退場所でもある。(1943年2月1日・4日7日)。現在住民が道ぞいに金網を張り巡らし海岸へ出られないようにしている。事前に交渉する必要あり。
62 第一次ソロモン海戦
1942年8月7日夜、ガ島上陸作戦中の連合軍に対し、第八艦隊が果敢に夜襲をかけ快勝。日本軍兵力、重巡5隻・軽巡2隻・駆逐艦1隻。連合軍兵力、重巡6隻・軽巡2隻・駆逐艦8隻。
63:第二次ソロモン海戦
1942年8月23日~25日にかけて日・米の機動部隊による海戦。日本軍兵力、空母3隻・戦艦1隻・重巡6隻・軽巡3隻・駆逐艦31隻。連合軍兵力、空母3隻・戦艦1隻・重巡6隻・軽巡1隻・防空巡2隻・駆逐艦16隻。
64:サボ島沖夜戦
1942年10月11日夜、ガ島への輸送任務作戦中の日本艦隊(巡洋艦2隻・駆逐艦6隻)を護衛していた日本艦隊と米艦隊との夜戦。日本軍兵力、重巡3隻・駆逐艦2隻。連合軍兵力、重巡2隻・軽巡2隻・駆逐艦5隻。
65:ガ島砲撃作戦
1942年10月13日夜、戦艦2隻・軽巡1隻・駆逐艦9隻が出撃、ヘンダーソン飛行場を砲撃した。さらに14日夜に重巡2隻、15日夜には重巡3隻でヘンダーソン飛行場を砲撃した。
66:南太平洋海戦
1942年10月26日~27日にかけて日・米の機動部隊による海戦。日本軍兵力、空母4隻・戦艦4隻・重巡8隻・軽巡2隻・駆逐艦23隻。連合軍兵力、空母2隻・戦艦2隻・重巡3隻・軽巡3隻・防空巡3隻・駆逐艦21隻。
67:第三次ソロモン海戦・第一夜戦
1942年11月12日~13日にかけての日・米の海戦。日本軍兵力、戦艦2隻・軽巡1隻・駆逐艦9隻。連合軍兵力、重巡2隻・軽巡1隻・防空巡2隻・駆逐艦8隻。
68:ガ島砲撃作戦
1942年11月13日夜、重巡4隻・軽巡2隻・駆逐艦4隻が出撃、ヘンダーソン飛行場を砲撃した。
69:第三次ソロモン海戦・第二夜戦
1942年11月14日夜の、日・米の海戦。日本軍兵力、戦艦1隻・重巡2隻・軽巡2隻・駆逐艦9隻。連合軍兵力、戦艦2隻・駆逐艦4隻。
70:ルンガ沖夜戦
1942年11月30日の、日・米の海戦。日本軍兵力、駆逐艦8隻。連合軍兵力、重巡4隻・軽巡1隻・駆逐艦6隻。
全国ソロモン会
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〔注意〕戦跡地の中には、不発弾の危険もあるので、現地案内人と行動を共にするのが望ましい。また、洞窟内には絶対に入ってはいけない。中にはいまだに手榴弾・弾丸等が散乱して危険である。更に酸欠の恐れもある。

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